ブログはキーボードで書きたい話

私は今、スマートフォンでこの記事を書いている。すでに床についた娘の横で静かに書くにはサラサラしたスマートフォンはいい。

 

ただ、タイトルのとおり、やはりキーボードで書きたい。その理由はたくさんある。

ひとつに、早く書ける。全ての指を駆使して、思ったことを少ないタイムラグで文字に起こせるのは素晴らしい。タッチタイプは、中学生のころ母から教えてもらった。ゲームや機械嫌いの母には珍しく、タイプだけは「役に立つから」と言って許してくれた。役に立っているよ。

ふたつに、カタカタとキーボードを叩く音が心地よい。お祖母ちゃんの人力ミシンみたく、心地の良い、硬い音が耳にも指にも伝わる。(32歳の私だが、父型の祖母の家には足踏み式のミシンが現役で活躍していた。タイプについて書いていて急に思い出した。)

 

あげようと思えばまだ上げられるが、今使っているスマートフォンに悪い。手軽さ、という面ではこいつには勝てない。静かに、どこでも書けるというのは大変な魅力だ。

 

ゆっくりスマートフォンで書くのも悪くない、と思いつつ、これも自分への言い訳か!?と問いたくなる、駄文でした。

フリーエージェントについて思うことの話

プロ野球にはフリーエージェントというものがある。

ざっくり言うと、中堅選手になると他球団と自由に交渉できる権利だ。

 

私は社会人になるまで”他球団に行くなんて恩知らずだ!”という思考だった。今は違う。

社会に出て評価される立場になると、不当(と思われる)に評価されていることにものすごく腹が立つ。ミスを押し付けられたり(または私がミスしたように感じさせる行為をとってこられたり)、成果を無視されたりするとすべてが嫌になる。

私はただのサラリーマンであるし、評価が野球選手のように大きく給与には表れない。それでもそういう憤りは強く感じるのだから、野球選手であればその感情はとても大きいものになるだろう。

 

今では、各選手が納得の行く形であれば、ファンとしてそれを尊重したいと思っている。(ただのファンである以上、受け止めるしかないのだが。)

贔屓のチームから選手が出ていってしまう場合、とても悲しい。でもそれ以上に”球団が評価しないのが悪い!””もっとグッズ買っておけばよかった…”といった感情が出てくる。

 

もし私が、サラリーマンとしてフリーエージェント権を得たとしたならどうするだろうか。今の職場に不満はある。それでも外で活躍できる保証はない。とても悩むと思う。

プロ野球界の動向はニュースでも報道され、公になる。自らの価値を信じて堂々と宣言することは格好いいではないか。いちファンとしてどのような選手も応援していきたい。

不便なことに趣を感じる話3

歩くこと、もこれに当てはまると思う。

 

私は愛知県在住で交通の便が良くない地域に住んでいる。そのため、日常の主な移動手段は車だ。通勤、保育園の送り迎え、スーパーへの買い出し、どれも車で行く。

 

たまたま、スーパーまで歩いていく機会があった。出かける瞬間まで、”寒そう…めんどくせー”と思っていたものだ。

実際に歩いてみると、なんか趣を感じた。体を動かす気持ちよさがそうさせていたのかもしれないが、こういう不便もあるものだと思った。

趣をどこに感じたのか考えてみると、普段は僅かな距離しか”靴を踏みしめて歩く”ということをしていないため、その感覚が楽しかったのだと思う。私のナイキのスニーカーは5年は使用していると思うが、大きな汚れがない。仕事の日は革靴だし、ゴミ出しはサンダルで行く。たまのスーパーも前述のとおり、車が地面との接地を担っている。

 

靴をすり減らしながら(大げさな表現だ)地面を歩く、という行動に懐かしさと、自分の足で移動するという満足を得た、という表現がしっくりくる。

 

散歩、という行動を主体的にしたことがないが、こういう感覚を得られる散策を散歩、というのだろうか。

私の1歳半の娘は、保育園では靴を履いて園庭で遊んでいる。ただ、まだ、家の周辺を歩いたことはない。もう少ししたら、娘とともに靴を踏みしめて散歩をしてみようか。

歩く楽しみをまさに体感し始めている娘に、新しい趣を教えてもらえるかもしれない。

喉の乾きは我慢しない話

あと少しで仕事が終わる。あと45分もすれば家につくが、喉がほんの少し乾いた。

”ほんの少し”、そんなときでも私は自販機で飲み物を買う。

 

医学的なことは知らないが、私の経験上、喉の乾きを甘く見ると体調が悪くなる。風邪をひくこともあるし、意味がわからないが歯が痛くなることも、頭が痛くなることもある。

一人暮らしを初めた大学生の頃からなんとなくそう感じていて、ペットボトルや水筒を持ち運ぶことが多くなった。もうある種の強迫観念に駆られているのかもしれない。

 

職場の自販機で売られているものはスーパーやコンビニより少し高額だ。一番安い水でも120円する。毎日水筒を持っていっても、買う頻度は高い。それでも毎回”高いな…もったいない”と思っている。

 

ただこの120円は保険なのだ。頭痛や歯痛が出てきたら120円では済まない。金額がトントンだとしても痛みを経験した分損していると考える。

 

この保険的な水分に対する考えは妻も理解してくれている。少ししか口にしていないペットボトルを持ち帰っても、”なるほど”と察知してくれる。それに、妻もよくペットボトルを買っているようだ。

ケチ的思考で節約することは生きていく上で必要だと思う。私はケチであるが、それよりさらに、体調不良を先に見据えた、より進んだ、”予測できるケチ”だと思っている。

 

出費を見返していて自分に言い訳をしている、という駄文でした。

同僚にボールペンを貸したくない話

私は日々、事務業務にあたっている。手元にはパソコンやスマホのほかに、いつもボールペンがある。

当然、私のボールペンだ。主に使うのは私で、他の人が使うことは全く考慮していないし、しなくていい。

それでも、ふとした瞬間に借りられることも、使われていることもある。これが私はどうも苦手だ。(コロナの影響もあるが、もともと私の所有物を使われるのが苦手だ。)

 

学生時代は、友人以外に借りられることはなかった。というよりそもそも学生は皆、筆記具を持っているもので、貸し借り自体記憶にない。

なので、少し良い品質の、そこそこ高価でもあるボールペンを使っていたりした。

 

社会人になると唐突に貸し借りが始まった。先輩や上司、新卒の頃は客先で使われることや、最悪、知らないうちに持っていかれてしまうこともあった。

そのため、良いボールペンではなく、普通の、安価なものをとっかえひっかえ使うようになった。

 

今ではデスクの中(引き出し)にSARASAジェットストリームといった、いわば”ブランド物”を控えさせて、デスク上のペン立てにはドン・キホーテで買った1本9円のボールペンを2本、挿している。勝手に借りていくヤツらは9円のボールペンを使えばいいのだ。

 

自分が気に入った物を使うのは気持ちがいいし、素敵なことだと思う。ただ、仕事上、これがすべて当てはまるわけではない、と私は思っている。

これを原点にして、仕事で使う私物には頓着しないようになった気がする。稼ぐために浪費する必要はない。

 

潔癖なのか、単なるケチなのか分からないが、他人に対してそういう変な壁を作ってしまう…という駄文でした。

立浪監督の2000本安打の新聞を捨てられない話

私は立浪監督が2000本安打を達成した試合を、テレビで見た。翌日には一人でコンビニへいって中日スポーツを買った。

当時中学生であったが、一人でコンビニへいったことも、家に届く以外の新聞を買ったことも、どちらも初めての経験であった。

 

先週家の片付けをしていたところ、野球グッズをしまっている箱のなかで、この新聞を見つけた。2003年のものであるから、もう18年も前のものだ。

今では当時の記事をインターネットで調べることができるし、図書館などに行けば当時の新聞を見ることができることも知っている。それでもこの新聞は捨てられない。

 

最近、私のブログでは不便なことに趣を感じる、ということについて書いている。私は物を持ちすぎていることは不便だ、と感じている。家が散らかっていると気分が悪いし、何かを探すときにも時間がかかる。できるだけ物を減らそうとしても、今回の新聞のような思い出深いものを見つけてしまうと、捨てられない。

この捨てられないという不便さには趣は感じないが、気持ちのワクワクがある。

 

2021シーズンは終わり、野球は当分見られないのだが、今野球が見たい。来年の春が待ち遠しい、と思うと同時に、忙しい春は来てほしくない、という気持ちもある。

一瞬でも掃除途中にワクワクをくれた、中学生の私に感謝しながら記事を読み返す。

不便なことに趣を感じる話2

ひとつ、タンブラーについて思うことがある。

タンブラーは温かい飲み物などを保温しつつ、すぐに口にすることができる。とてもよいものであると思う。

しかし、水筒もこの世の中には存在するではないか。

 

高校生のとき、アメリカに短期留学(と言うなの旅行)をしたことがある。そこで現地の学生たちはタンブラーを使っていた。「こいつら、水筒を知らねえのか?」と思ったものだが、アメリカのホームセンターにはもちろん水筒は売っているし、疑問だった。ほどなくして現地の人に聞いてみたところ「水筒はなんかダサい」という要領を得ない答えをもらった。

 

最近、日本でもコーヒーショップのカップを持っていることがおしゃれ、という風潮を感じる。ファッションとして”手にカップを持っている”ことが必要なことがあるということだ。

これは「水筒はなんかダサい」の要領を含んでいると思う。

 

オジさんの私にはファッションのことはわからないが、タンブラーを使うことは不便を楽しんでいることのような気がする。水筒のほうが便利だとわかっていても、タンブラーを”使いたい”のだ。手に持っていたい、あるいは手をわざと塞いでいたい、ということもできるかもしれない。

不便なことに趣を感じる〜とは違う視点で考えても、忙しい人を装うのに使える気がする。例えば私が娘の服を買うためにちょっと入りにくいお店に入ろうとしたとき、たぶん手ぶらでは行かない。スマホを片手に「おつかいで来ているんですよー」という人物を装うと思う。そういう、”なにかしている途中だけれど、これをしに来ている”みたいな装いにタンブラーは使える気がする。ただこれは実用性があるので、私の考える趣とは違うんだけど。

 

何を書いているのかわからなくなってきたが、水筒より不便と思われるタンブラーを”使いたい”と感じる気持ちは、なんとなくわかるし、仮にタンブラーを使うことに利益がなくとも使いたい、という気持ちには趣があるよねえ、という駄文でした。