不便なことに趣を感じる話2

ひとつ、タンブラーについて思うことがある。

タンブラーは温かい飲み物などを保温しつつ、すぐに口にすることができる。とてもよいものであると思う。

しかし、水筒もこの世の中には存在するではないか。

 

高校生のとき、アメリカに短期留学(と言うなの旅行)をしたことがある。そこで現地の学生たちはタンブラーを使っていた。「こいつら、水筒を知らねえのか?」と思ったものだが、アメリカのホームセンターにはもちろん水筒は売っているし、疑問だった。ほどなくして現地の人に聞いてみたところ「水筒はなんかダサい」という要領を得ない答えをもらった。

 

最近、日本でもコーヒーショップのカップを持っていることがおしゃれ、という風潮を感じる。ファッションとして”手にカップを持っている”ことが必要なことがあるということだ。

これは「水筒はなんかダサい」の要領を含んでいると思う。

 

オジさんの私にはファッションのことはわからないが、タンブラーを使うことは不便を楽しんでいることのような気がする。水筒のほうが便利だとわかっていても、タンブラーを”使いたい”のだ。手に持っていたい、あるいは手をわざと塞いでいたい、ということもできるかもしれない。

不便なことに趣を感じる〜とは違う視点で考えても、忙しい人を装うのに使える気がする。例えば私が娘の服を買うためにちょっと入りにくいお店に入ろうとしたとき、たぶん手ぶらでは行かない。スマホを片手に「おつかいで来ているんですよー」という人物を装うと思う。そういう、”なにかしている途中だけれど、これをしに来ている”みたいな装いにタンブラーは使える気がする。ただこれは実用性があるので、私の考える趣とは違うんだけど。

 

何を書いているのかわからなくなってきたが、水筒より不便と思われるタンブラーを”使いたい”と感じる気持ちは、なんとなくわかるし、仮にタンブラーを使うことに利益がなくとも使いたい、という気持ちには趣があるよねえ、という駄文でした。