読みたい本ほど読めない話

好きな作家の長編小説をずっと読めずにいる。

 

好きなものほど大切に、真剣に作品に向き合いたい。自分のこだわりの話になってしまうが、長編ともなれば自由な時間が3日は欲しい。というのも、読み始めてから読了するまでのいかなる時間にも誰とも話したくないし、どんな用事も入れたくない。ボーッとする時間に、その作品を自分の中に入れる間、どんな汚れも入れたくない。

私はこれを作品に対する潔癖症と思っている。

 

これは小説だけではなく、音楽や映画でもそうだ。好きな歌手のCDが出れば家族が寝静まった時間帯にイヤホンで聞いていた。映画は、期待する作品ほど映画館ではなくDVDを買って観た。映画館で見たいのは売上や迫力の面からもそうなのだが、あそこは雑念がありすぎる。他のお客さんの咳払いや匂い…こだわり過ぎなのは承知だ。

 

長編小説は本当に、読めない。仕事に追われる毎日では思い出したくないことが出てくるし、土日は家事と育児で時間があれば寝たい。

 

今も部屋の本棚にはその長編小説が並べてある。(本当に好きなものについては何も語りたくないので、ここで気にされている方には申し訳ないがタイトルも著者名も秘密だ。)

 

私は高校生の頃が読書量のピークだった。友人がいないわけではなかったが、休み時間も1時間強の通学時間も本を読んでいた。それでも好きな作家の作品は外では読まなかった。やはり外部にいる自分が読む作品は、その時の光景をイメージしてしまう分、汚れるとは言わないまでも、まっさらにキレイではないと思ってしまう。

 

32歳の今でも変わらない、ということはもう一生この潔癖症は治らないだろう。融通がきかないという点で残念ではあるが、「私はキレイに作品と向き合うことができる人間なのだ。」と意味不明な誇りを感じたりもする。

 

年末年始にはそのような時間が取れるだろうか。それとも家の雑務に追われてしまうだろうか。仕事で年末の話が出てきた今日、そんなことを考えた。

今週のお題「赤いもの」から、赤色が怖かった話

今週のお題「赤いもの」

今32歳の私は、小学2年生の頃まで赤色が怖かった。

はたらく自動車の仕掛け絵本には、救急車やブルドーザー、消防車が描かれていたが、その消防車と赤い炎がとても怖かった記憶がある。赤色を怖がるようになった原因がこれかはわからないが、幼稚園に入った3歳の頃にはもう怖かったようだ。

就学前では、母方の実家の洗面台にあった、電動歯ブラシの赤い充電ランプが怖かった。日が暮れると洗面所ではその赤色だけが光り、非常事態であるような雰囲気を醸しだしていた。今思えば本当に小さな明かりであり、どうということはないのだが、夜、には洗面所はおろか、その手前の廊下ですら通りたくなかった記憶がある。怖い記憶は鮮明だ。

小学生になると、赤色鉛筆を使うようになった。その赤色鉛筆は、文字通りの”赤色”か”朱色”を使うことが許されていて、私は常に朱色を使っていた。やはり赤色が怖かった。一方でその朱色はノートに描かれると、赤色よりも少し薄掛かって見え、「重要な箇所なのに見にくいな…」と思ったものだ。そういう思いが強くなってくると、自然と赤色の鉛筆を使うようになっていった。

その頃から、赤色への恐怖もなくなってきたんだと思う。

 

私は、その小学2年生頃まで、音楽、とりわけ、クラシック音楽を聞いたときに共感覚で色を感じていた。夜、父が寝る前にCDを再生していたのだが、そのときに「うーん、これは青だな」とか「これは色がないな」とか話をしていたのを覚えている。

しかし、今ではその色を感じることはできない。色を思い描こうとしてもCDのジャケットやBGMとなっていたドラマのシーンが出てくるだけだ。

この共感覚が何か才能であって、赤色への恐怖もそれに付随する結果だったのかもしれない、と思うことがある。今となってはどうすることもできないが、自分の感覚や感触を大事にすべきだ、という教訓として私の中で生きている。

バックパッカー気分を味わう話

最低限の荷物で長旅をする、バックパッカーになってみたいという時期があった。高校から大学にかけて、かなりの期間そう思っていた。しかし、そんな勇気はなく、普通の海外・国内旅行で私の20代は終わってしまった。

 

そんなバックパッカーに思いを馳せる瞬間は、30代になった今も日常にもある。例えば、肌寒くなりつつある最近で言うと、マフラーを持ってきていないときである。

私はお腹が弱く、夏の終り頃になると腹巻きを着用または持参して出かけることが多い。スーパーで打っている綿100%のただの白いものだ。それを、出先で”寒い…マフラー持ってくればよかった”と思ったとき、首に巻く。そのとき、そう思う。

多少は見た目を気にしろ、という話でもあるのだが、”自分がバックパッカーであったなら、多分、そういうときに腹巻きをマフラー代わりにするだろう。”という妄想が働くことと、思いついた合理性というか実用性を実行している自分に面白くなる。

物を持たない、いわゆるミニマリスト的な思考でもあると思うのだが、今ある物を120%の実用性で使うような、不便の先にある、物の楽しい使い方をこのバックパッカー的妄想と合わせて味わっている。

 

言いたいことがなかなかに文章化できず、主語述語がはっきりしない文章になってしまった…がそういう不便さ、物の新しい使い方を閃いて実践したときに、バックパッカーへの憧れが再燃する、という話でした。

2000本安打を見損ねた話2/2

2017年6月3日、清原のあの試合からちょうど13年後、中日の荒木選手が2000本安打を達成した。黄金期の中日を支えたベテランの偉業だ。

その前日、私はナゴヤドームで、惜しくも1999本目のヒットを見た。

 

6月2日は平日で、私もサラリーマンの端くれとして働いていた。間もなく繁忙を迎えようとしている中、先輩が、「ナゴヤドーム行かない?」と声をかけてくれた。

その先輩は野球好きで、中日ファンではなかったが、「2000本安打なんてめったに無いし、見られるかも、見たい」とのことであった。

ともに車通勤だったため矢田駅の改札で待ち合わせることにした。当日券を買い、入場すると試合はすでに始まっていた。平日にしては混んでいたように思う。席は一塁側の内野で、B席だったか。サラリーマンよりは大学生といった、若者が多かった。荒木選手のユニフォームを着ている人も多く、2000本安打達成への期待が見て取れた。

 

1999本目のヒットが出た。”マジで見られるかも”と思ったとき、「僕、清原の1999本も見たんですよね」と前述のことを話した。途端、荒木選手はベンチに下がってしまった。なんとも残念だった。

 

その試合は楽天戦で、試合は6−3で中日が勝った。中日ファンの私はとても楽しめた試合だったが、先輩はどうだったであろうか。

 

私は野球観戦に出かける際、会場時間に合わせて入りたい。相手チームの練習やスターティングラインナップの発表など、見られるものは全てみたい。せっかくチケットを買ったのだから、と貧乏性な考えと合わせて、その瞬間のチームの状況や雰囲気を味わった上で試合を見たい。

ただ、今回は、私にしては珍しく、致し方なく、途中からの観戦となった。が、楽しかった。平日の仕事という現実から、急に楽しみの世界に出かけた感じがした。この試合は、野球観戦の大人としての楽しみ方を教えてもらったような、そんな一戦だった。

2000本安打を見損ねた話1/2

2004年6月3日、中学3年生だった私は東京ドームで中日対巨人戦を見た。

愛知出身の私の修学旅行先は横浜・東京で、たまたま中日戦を見られるプランがあり、それを選択していた。(他には、六本木ヒルズ、お台場、原宿プランがあったように思う。)

 

巨人の清原選手は、通算2000本安打まであと3本としていて、”もしかしたら見られるかも”と思っていた。中日ファンである私からすれば先発の山本昌投手の活躍ももちろん期待していたのだが、野球ニュースで大きく報じられていた大記録の達成も、できれば現地で見たかった。

 

結果としては、1999本までその試合で打った。加えて、1999本目は試合を決める3ランホームランであった。

当時は今よりもアンチ巨人思考だった私はとても悔しかったのだが、巨人ファンの盛り上がりを見て、どんなチームでも応援する選手への熱い声援は心を動かすのだなあと感じた。

 

今思えば、そんないい試合を現地で、しかも修学旅行という人生の大きなイベントの中で見られたのはとてもラッキーだったと思う。振り返るとそれ以降東京ドームに行ったことがない。社会人となり、周辺に赴くことがあっても落ち着いて野球を見ることができていない。”いつでも見られる”と思っている野球も、東京の一大施設で見ることは修学であったと言える。

 

そのようにして通算2000本安打を見逃した私だが、社会人となってからもう一度2000本を見逃し、1999本を見たことがある。

これは応援する中日の荒木選手のものだ。これについては一定、狙って観戦に赴いたのだが、別記したい。

 

当時の東京ドームについて、ナゴヤドームしか知らなかった私は”なんか古いな”と感じたものだが、今はどんな感じなのだろうか。なかなか行く機会に恵まれないが、ぜひまた、行きたい。

子ども用ハーネスの話

昨今話題の子ども用ハーネスを初めてみたのは2006年の夏、アメリカでのことだ。

 

高校2年生の私は、同級生の誘いを受けて、市の交換留学生に応募した。この留学についてもいつか詳しく書きたいことの一つである。なお、私は英語が全くできない。センター試験など大半は感であった。得られたのは英語が得意な友人である。後々大変助かることにはなる。

 

さて、ハーネスの話に戻る。交換留学先のアメリカ・デトロイト近郊の都市には、今で言えばイオンのようなショッピングモールがあった。私はホストファミリーに連れられて「MLBのTシャツでも買っていきなよ」と服を見ていた。

そんな中、アメリカに住む母親たちは小さい子どもにハーネスを付けていた。正直な話、”犬じゃないんだから… アメリカは雑だなあ”と思った。またこの感想については帰国後、私の母にも共有し、母もそれに同感した。「安全だけど、ちょっとね…動物みたいよね」

 

現在、私の1歳半の娘は、トコトコと歩くことができる。コロナの影響もあって外で歩くことは保育園を除くと殆どないのだが、家の中でも”どこに行くのか”不安だ。これを踏まえてハーネスをどう見るかというと、”付けたい”。

 

今、日本では子どもにハーネスを付けているのはおそらく少数派だろう。

2006年のアメリカ、そのショッピングモールしか知らないが、その時はハーネスを付けている人を多く見た。というより歩きはじめの子を持つ母親の大半が付けていたと感じるくらい見た。

やはりアメリカは進んでいる。日本人の感性も悪ではなく、正しいとは思う。ただ近年、日本も合理性を重視するようになってきたと感じる。

 

おそらく我が子にハーネスを付けるとしても、あと1年後の話になるかと思う。それまでにより認められるようになるだろうか。

 

子を持たない人にとって、子育ては楽に見える。私もそうだった。どう辛いのかは、一言では言えないが、仕事より辛いと感じるときも少なくない。これもまたいつか書きたい。

いろいろなことが認められる、というより、他人のことには口を出さないような世の中になるといい。迷惑をかけない範囲なら、みんな自由に生きたいよね!という駄文でした。

ONE PIECEを買い続けている話

少年ジャンプで連載されているONE PIECE、小学生の頃からコミックをずっと買い続けている。

 

小学生の頃は毎回楽しみに買っていたし、ONE PIECEのゲームやグッズなども買っていた。それが今はコミックを買うことは義務になっている。現在の最新刊は100巻であり、ここまで来たらもうやめられないのだ。

 

ストーリーは、一つの街の事件であったものから、漫画の世界全体を巻き込むものへと大々的になっており、盛り上がりはある。ただ私からすると、登場人物が多くなりすぎてもう訳が分からず、その内容を追えていないのである。

この書き方では、ONE PIECE側が悪いとなってしまうが、それは違って、悪いのは面倒くさがりのオジサンになってしまった私が悪い。惰性で読んでいること、義務感で読んでいること、こういうONE PIECEへの向き合い方が原因だから。

 

少し話は変わって、ONE PIECEを発売日に買うことは少なくなった。

本屋に行く用事のときにちらっと見て、”お、出てる。買うか”くらいになっている。

それでも、”お、今日ONE PIECEの発売日だ。たまたま本屋に行くし、買うか”と思っているときに本屋になかったとき(信じられないかもしれないが、その本屋ではONE PIECE最新2巻を取り扱っていないことがあった)に、”あのONE PIECEだぞ!なんで置いていない!”と憤ってしまうのは、まだONE PIECEファンであるからだろうか。

それとも、思い通りにならないオジサンが社会に憤ってしまうことと同じだろうか。

 

本棚の大半を埋め尽くすONE PIECEを見て、なんとなく思ったことを書いた、駄文でした。